TIMELESS
Introduction
存在はどこまで「存在」するのか――これは時間の尺度と意味の変遷を問う試みです。
本作は「特別な思いが込められた木が切られ、しかし燃やされる前に人の手によって救い出された」という出来事を発端としています。作品はその木の年輪にフォーカスし、作り上げたイメージをサーマルプリント(時間によって消えてしまう感熱紙への印刷)にて三つの状態を並列的に提示しています。これによって何が成立するのでしょうか。
かつてマルティン・ブーバー*¹は「我と汝」において、対象への眼差しを「それ」から「なんじ」へ移行させることで関係性と意味の変容を説きました。意味とは主体の記憶や関係性に応じて揺れ動き、絶対的な基盤を持ちません。種や風土、時代といった枠組みによって共同的な意味は一時的に成立するものの、それらもまた時間のスケールを大きく変えることで意味の網目の隙間にこぼれ落ちていきます。
救出された木はその意味のあいだで揺れ動く対象です。ある者にとっては無意味な「それ」にすぎず、別の者にとっては「なんじ」として深く関わりを結ぶ存在となります。またその意味のあり方さえも一様ではありません。
展示された三つの形態は、この意味の変容を凝縮しています。
作品[1](Fig3.)では強烈な太陽光と時間の経過によってイメージは消失しています。
しかし[2]では加熱というきっかけによってイメージは再生します(ただし、モノクロで反転してしまうため、年輪は逆転し「図と地」の関係性が入れ替わる)。これは時間の経過によって失われた記憶が、ある特定の行動によって蘇る(例えばプルーストの「失われた時を求めて」のような)現象です。
そして[3]において更なる加熱によりプリントそのものが燃えて朽ちています。これまで[1]と[2]では平面上のイメージと人間に作用する図像の関係性に終始していたはずが、[3]ではまったく別の角度で終わりを告げるのです。これは支持体を失うことであり、存在そのものが消失すること=「無」への収束です。
救出する木という存在がこの世界に現れなければそもそもの意味は紡がれず、この話は成立しなかったでしょう。そしてその年輪は木の内側の時間の痕跡であると同時に、木の外部環境の記録でもあります。すなわち、木は内と外を互いに包んでいます*²。
しかし環境を失った木はいまや新たな年輪を刻むことはできません。とはいえ、救出の行為によって「なんじ」として眼差され新たな関係性の場に置かれています。さて木はどこまで「存在」するのでしょうか?
私はそこに新たな意味の獲得の機会を提供したかったのです。物理的には切られ、仮想的にはイメージは消失し、二度の死を経験する木。しかしイメージの終焉は意味の死ではなく、むしろ意味は常にテンポラリー(一時的)なものとして、生成と消失の間に現れ続けます。
ここを出発点とし、新たな架空の年輪が刻まれることを期待して。
(リーフレット記載解説文)
References
Fig1.
(左)切られた木が存在していた頃。ここには拝所があり、撮影時、平良市で最も高い木だったという。(右)同じ場所の現在。
Fig2.
救出された木の年輪を元にしたイメージ
Fig3.
1. プリントしたイメージが時間経過で消えたもの / 2. 消えたプリントを加熱してイメージを反転させたもの / 3. 過度な加熱により燃えてしまったもの
Fig4.
該当の木についての参考資料:
広報ひらら 1995/5月 「木と語ろう 〜老木・巨木を訪ねて〜②」佐渡山正吉氏 / 資料提供:萬矢叶子
Self-Critique
ここから作品をより多角的に見ていくことにする。(引き続き三つの作品を左から1,2,3とする。)
まず本作において基盤をなすマテリアルはサーマルプリントという、熱の有無によって像を成立させる二値的なメディウムである。
[1]においては結像後に500時間程光にあてることでイメージが劣化し、痕跡のみを残して消えている。[2]では消失後のプリントを再加熱することで結像しなかった部分が浮き上がり、像は反転している。そして[3]では過剰な熱によって支持体そのものが焼失している。
そこに定着されたイメージは木の年輪を写した写真である。これは木が積み重ねた経験を記録の形として、年輪の外縁に向けて物理的かつデジタル的に人為的に加工したものである。この像を二階調化し、プリントしたうえで消失したのが[1]だが、ここでは倫理的な主張――「木を伐採することの是非」は主題ではなく、むしろ価値の根拠そのものが相対化されている。
重要なのは[1]から[3]に推移する過程で現れている「時間」の表象である。時間は「消失」から「反転と再発生」、そして「存在の焼失」へと一方向に流れる。しかし同時に、物質としての木の観点からはベクトルは反転し「存在の焼失の回避」から「新たな意味の生成」へ、そして「意味の消滅(*後述する)」へ――。両者が互いに鏡像のように二重の運動を示している。
そして三連画――トリプティックという形式は象徴的にこの思考を強調する。宗教的な秩序を想起させる形式でありながら、フランシス・ベーコンの絵画のように連想と対比、緊張を孕む。中央の[2]のみが唯一の可視像(かつ反転している)であるという事実は、消失や崩壊ではなく、その狭間における生成の契機に焦点を当てていることが明らかになる。
さらにこの連作はパラドキシカルな性質を帯びている。すなわち、[1]と[3]にはすでに像は存在せず、[2]において現れる像もまた、いずれは消え去る運命にある。イメージを欠きながらも同時に「イメージが失われることそのものをイメージさせる」――その逆説が作品を支配しているのである。
ここに人の生命観的な視点を重ね合わせることも可能であろう。人間はしばしば、時間の中で進行しつつある状態を「生きている」と呼ぶ(現にこの切り倒された木についてさえ「まだ呼吸している」と形容されることがあった)。これはブルデューのいうハビトゥス(経験による無意識的な知覚)でもある。[1]は去りゆく存在の痕跡であり、[2]は今まさに消滅の過程にあり、その変化の只中で「生」を予感させる。[3]は無への収束であり灰に帰す目前であるが、完全な消滅ではないがゆえに依然として思考の対象たり得る残余である。というのも完全なる無とは、あったことさえ思い出すことができない忘却だからだ。したがって、ここで表される属性は有限なものがなお存在者として存続する中間領域であり、論理によって停止することのできない通時的な原理である。
これはエントロピーの増加と不可逆性をめぐる思索へとつながる。生とは不可逆的な散逸への抗いであるが二度の死を経験するという構造は、単一のエントロピー増加を分散させ、個が複数的に位置をずらしながら存在の基底を継承することを意味する。これによって存在と生を拡張する可能性が垣間見えるのである。また木自身になぞらえると、[1]と[3]は私たちがプロセスとしての生命の現象を経験できない誕生と死の瞬間に属する。つまり[2]における「観者による限定」があってはじめて存在が可視化される。
また美術価値におけるデジタルと保存という点でも掘り下げておきたい。
デジタルイメージは複製可能で、劣化することなく不老不死である。しかし本作で可視化されるのは、劣化し消失するプロセスの「時間」の痕跡であり、これが生成の可能性を開く。これは写真がメディウムへの定着によって価値生成され、その永続性が問われるという歴史的慣習とは逆の道筋を辿っている。
本作は無限に延命するデジタル的不死性ではなく、消失を含みながら新たな形で複製され続けること――その「生成の運動」こそが人間的で有機的な存在の様態であることに価値基準がある。
支持体の消失を経てもなお、本質的な支えは「木にまつわる記録」に存する。かつてそこにあった巨木、伐採、救出、作品化という記録――それらが存在を延長し、時間の尺度を変化させる。とはいえそれらの記録さえも、やがては途方もない時間のうちに消滅するだろう(*これが後述すると書いた意味の消失である)。
かくしてこの「TIMELESS」は小さな島の一本の木から始まる小さな物語でありながら、「存在者をいかに認識するか」「世界全体をいかに捉えるか」「時間をいかに経験するか」という根源的な問いへの歩み寄りの実践であり、時間の不可避な運動を露わにすることで、存在の有限性に問いかけるものである。
- *¹ オーストリアの社会学者・哲学者。人間の主客関係における対話的存在のあり方を説いた。
- *² 内側と外側が互いに包まれつつ包むような同時性を西田幾多郎は「逆限定」という言葉で表現した。