TEXT

These are texts that Koyama has written so far and will write in order to act in the future. Writing highlights the limits of linguistic representation and is like mapping each time the confirmation of an endless impossibility, but it is preserved because it copies the driving force of form and intention into the future. Before the form comes the word, but the form does not return to the word.

「今」は未来に生きている。未来が過去を作る。
その今の連続は自己と世界の眼差しでもある。

まず自己について。
人は本来的に何者でもないが故に変容し続け、同一性を持たず、自由で安定せず、「そのもの」として成り立たない存在であるが、その知能により分割できない個として倒錯し、反自然的に合理化を進める矛盾した存在である。テクノロジー及びデータ主義的に絶対的な法則の変化の一過程、つまりアルゴリズムとして自己を見なす一方、非人間至上主義における知覚フェーズを受け、意識がどのように人を導くのか思考する。それらは弁証法運動として想像上の秩序を生成するが、個としてのシステムに着目すると、相反する自己の境に各々の必然性をもった真空なる大いなる裂け目、主体的な真を希求する視座があると考える。これは誠に純粋なる経験であり、言葉の前に存在する上位概念である。これらの前において私は「私たち」、つまり違いを含む同一性を獲得し、種子が芽吹き花を咲かせるような自己矛盾過程を認める。これは無限性を含む認識の外側、つまり現象として確認されるスペクトルの未知の部分に可能性を見出す脱自的行為でもある。そうして「私」なるものは消えてゆく。これは免疫システムのように非自己を認識して排除し、外面として機能するプロセッサの中心が「空」のみ存在するサイクルと相似を成す。

そして世界について。
完全に理解不能な他者として内在する大きな力=Xとしての世界は、驚くことに利他的共生関係にあると考える。私たち人類はこの大いなるXの調和を純粋な経験としてただ受容していれば良かったが、都度確認し合う術を持ち、欲望を基底として文化という名に集約してきた。つまり発生的なXは「在る」だけの身体性を排除され、設計的に再解釈され合理化された結果、自己には世界に眼差されることを欲望するという奇妙な主観を形成させる。もし真なるものへの道筋として対象を、対象=自己として取り込み概念化することが不可欠だとすると、そこには物語が生まれ、委ねきったものは擬似なる自然として体系化される。一方、理解不能としながらも常に寄り添い自然法爾すれば、それは主客が境なく表しの媒介として機能することを約束する。

これらを踏まえると、表現とは「〜である」と定義できない矛盾する自己が恒常性のもと脱自的に外化を繰り返す仕組みそのものである。それは自己から世界への偶然の歩み寄りであり、眼差される欲望をクオリアへと還元し、光が明かす嘔吐に耐えながら「良心」によって反転させるサイクルでもある。これらは常に重力の影響下にある。しかし西も東もなく、種のルーツは単なるスケールに収斂する。我=多くの内の一として、内なる世界を再構成する自己=主体は「私」を消しながらも「私」なる動的アルゴリズムを形成し時間を発生させ、それは鑑賞されることで縁起的にその一部とする。これら本質の次元転換の瞬間が結晶化された作品達は、無限の虚構をも呼び寄せながら、主観的で真なるそのものの美へと大成することを期待したいと思うのである。

私たちは現実を見るのではなく、イメージの先に現実をつくる。

それは物理的な光の受肉である。すべての事物から「見られている」ことを受け止め、その光の反射を浴びる。つまりこれは自己意識を持つ自分を解体する行為であり、その断片を記録することである。

しかし、そもそもカメラを通した写真というのは写実的ではなく、主観的で抽象的な出力物であり、何かしらの変換装置さえ用意すれば、すべての事物は「写真的」に新しいコードを作ってしまう。このコードとしてのオブジェクト(次元を問わない)は文脈と印象の美学を持つのだが、あくまで断片的表現であることと、誤読の自由を担保していることから、鑑賞者にある種猥雑に交換される。

この写真的危うさを利用し人を欺くことは可能だが、単なるアイロニーの域を超え得ないと考える。つまり写真的行為によって解体された自己の類まれなる享楽に強制的に付き合わされる鑑賞という時間こそが写真の持つ意味である。

私たちは未来へ向けてシャッターを切れないからこそ求めるイメージを圧倒的に過ぎ去った時間=死として固着させたいが、回想から組織的に浮き上がるものはあくまで表層であり、そこにまた断片性が持つ欠落を埋めようとする(そして永遠にそれは埋まらない)創造性という名の堂々巡りがあるのである。

図像とは境界のメタファーである。それは現実に存在せず現実を抽象化したものであり、形態が示す文化的背景や表象をほのめかしながらも漂白させ、あやふやに実像化したものである。

図像は「無限」のように、概念として理解可能だが現実には存在、及び視認できない理想的な類似を探す形象でもある。

また言葉とは異なって、指し示す定まった対象や正解がなく、永遠に何かに例えることが可能なゆえに無意味ともなりうる危険性を孕む表現形態である。

つまりそれ自体が意味を伸縮させ補完されることで、多次元的に展開されるよう創造性を担保しているその猶予こそが、図像を図像足らしめている。

ただし、図像はあくまで空虚(形態を代替化されたイメージ)の特化物に過ぎない。そこにいかなるナラティブを組み込もうとも、過剰に接続された仮設の有意味性が付与されるだけに留まる。

よって図像は認識や理解の骨子となるようでそのもの=中心ではなく、意味の表象の導入として機械的にリズムを取りながら誘惑するフィルターとなる。

人は名付けることにより、語の意味形象的差異性によって、相互差異的に自己同一性を得た個が、それぞれの有意味的存在単位を意味分節という形に集約させる。

この無量無数の限定され特殊化された最小単位の意味連関組織、網目のような穴だらけの全包囲的磁場によって切削された現実が現象する。

この現象における包囲性の解読とそのものの流転が織りなす力動が、意味の即時的効用を得て快楽をもたらすとき、そのテクストなるものは主観的存在論として生起される。

一方、書く=テクスト化する行為は、メタ的構造仮説をそれぞれの整合性の内に打ち立て、網目組織として有限性を保ちながら接続を繰り返し、或る視点を無限の次元展開の生成プロセスの中へ投企させることに他ならない。

これらが円環のように内的完了を志向するものであることを期待し、またそれらが一種の可塑性を備えて新たな意味接続として思索を紡ぎ出す彼方へと試みる出来事でもある。

書く―それを始めることは欲望的目的論のもと、言語の網目の能動的理解を走り出し、文化的無意識に関連づけられた盲目上の本質をあらわにする。

だからこそ、書かれたもの=テクストが示す文化的無意識によって規制された聖域は無目的な禁忌によって暴かれ、またそれを想定することで書く―読むが、網目の二重性、もしくはベースとなる下地が表層に及ぼす作用が、その表層の意味そのものを逆限定していることを意識させる。

よってテクストとは、それ自体の指示の追跡のみならず、それが無意識的に正誤の判断を持った根拠となる慣習的結果の本質論のメトニミーとして機能し、包囲される対象深度の複層的対峙を浮き上がらせる有限的な問題定義に他ならない。

言葉はいつもすぐそばにいる最も近しい他者である。
環境が持つコードに沿って精巧な道具のように扱われることもあれば、無意識に、そして無意味に吐き出されることもある。

言葉は繊細なテクスチャをまとい皮膚のような感覚が備わるがあくまで表層的であり、指し示すものと絶対的な結びつきがあるわけではない。だから言葉は不便であり、不十分であるということから始めなければいけない。

言葉と言葉の間には無限のグラデーションがある。日本では雨を表す言葉が豊富であり、また虹の色数や表現は文化で多様に異なる。

人間の営みのいくつかが世界の解明と拡張にあると仮定すると、いつしか言語体系で表現しきれない段階へ向かうことになる。これまで使用していた言葉と、その言葉を超えた高次にある状態。それを関連付け名づけることでまた言葉が生まれる。無限に言葉が作られ補完され合う関係性が地図を作る。

この地図は人間が生きる世界そのものを示すが、人間が人間であることの根拠は言語にあり、その言語の根拠は言語そのものにある。これは思考が言語に従属してしまう人間の知の本質であり、分解不可能な表現の基底でもある。

そのような性質をふまえても、すべてが固定されず流れていくこの世の仕組みの中で、言葉の発生や奇跡的な繋がりが、ひとときでも身体的情動に機能すると思わせられる感動はある。

それは論理からこぼれ落ち崩れゆくとわかっている些細なものに、せめてもの形を与えようとする意志の光なのである。

パターンを見る

傍観するということ、Trans–Fluid

空虚な眼差し

「手」にとるすべもなく