art is–
諸科学が「A is B」を証明することを目的とし、哲学はこの「is」の部分を解明することを目的にしているとすると、芸術とは何だろう。
「A is not C」のAからCの歩み寄りかもしれないし、AもBもCも存在せず繋がりがないことを証明、もしくは証明さえできないことを示す態度かもしれない。ただそこに目的は存在し、「A≒B」もしくは「A to C」のような特異点としての知性的表層を生み出すことかもしれない。
芸術が理解し難いのは、それら表層から得られる感覚のラベリングが人によって異なり、認識にズレが生じることを許容している構造にある。これらを統合概念として名称を割り振り辛うじて共有できる場合もあるが、殆どは観念的で煩雑に散らばっているだけである。
そしてそれらを整理しつくそうにも、制作者は合理性よりも無意識的な誘惑を優先していることが多く、また知り尽くすに値しない過程を経ているものが殆どである。
結果、人は他者への興味が尽きてしまったり拡大解釈を繰り返す。それらは未整理のままに、自ら自己を外化する人間が後を絶たず、描かれた概念はいつまでも有用性とは程遠い円環を巡る運動となる。
近頃この辺りの知性の限界(と措定する)に興味があり、こういった無法地帯と基準、矛盾と整合性の揺れ動きこそが人間の素晴らしさと馬鹿馬鹿しさを示しているように思えて他ならないのである(褒めてる)。
無人島–
島にいると「島」に敏感になる。
ドゥルーズの著書に「無人島の原因と理由」がある。他者がいて初めて自我が生まれるなら、無人島に人が降り立ってもそれは無人島である。なぜなら他者ありきの私が存在せず知覚構造が成り立たないからである。
一方他者が無限に存在していたら他者は不知となり、自我はぼやけてしまう。またオンラインで人と繋がる時代といっても、それは同調的他者に限るのであって、否定的な他者はブロックできる。
認識や知覚の原理は人に元から備わっているとカントはいう。しかしそれを組み立てるにもアップデートするにも他者の批判が欠かせない。
私は毎日のように近くの無人島を見に散歩にいく。無人島は無限に想像力をくれるのだ。
まつろわぬ民–
まつろわぬ民という言葉がある。有り体にいうと権力に従うことを拒んだり、勢力の傘下に入らず独立している人々を指す。
私はこの言葉にいつも惹かれる。自分が生きてきたどの時代も「所属」を求められ、迎合するメリットを説かれてきたからだ。私はいつもそれを拒み、1人もしくは少数で動くことを意識してきた。
1人でできることは限られているし、孤独もある。認められないことへの不満や影響力の小ささを感じることもある。それでも尊厳を保ち、自らを律して立つこと。
まつろわない、は意思力だ。
小さなダイナミズム–
生きていると常に変化がある。得ることと失うこと、その連続でもある。
その変化を線で繋げば大小のダイナミズムがあらわれ、過去の時間や人間の表現を見渡すと、過剰なほどの内なるエネルギーがそこかしこにある。
しかし今ここの現実というのは、その落差をあまり認識することができない。物事は穏やかに流れておりドラマティックに演出されない。だから人は見えないものを見ようとする。この現実にドラマを加え物語として消費しようとする。
たとえ小さな出来事でも大きな物語を紡ぐことはできる。ただしそこから生きる意義を見出さないほうがよいと思っている。ただ唯一起こった事実だけが確かなのであり、それをどう捉えるかには無限の解釈がある。だからこそ人は何かを得ても何かを失っても、ただ「幸せでいれるようにいる」必要がある。