存在論–
AIによるクローン化が目の前に迫っている。メイヤスーの思弁的実在論、マルクス・ガブリエルの新しい実在論、グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論など人は実在に夢中で、私たちの存在の確かさそのものを確かめようとする。ここで井筒俊彦という脅威の偉人に目を向けたい。
井筒は「花は存在している」の主語は「存在」だと言う。つまり言い換えると「存在が花のように現れている」なのであり、存在というものはそれぞれの現れによって在るのだと言う。
では存在しないとはどういうことかというと、これは「真空」という存在によって確かであると。そしてこれらの「存在する/存在しない」が「在る」の概念に則ったものであれば、それらを包括する上位概念が必要となる。それが「空」なのだ、と。
私は、私というものを究極に掘った先に在るものはありありとした明瞭な「空」だと感じている。私を構成する核が「空」だとして、その私が存在することを包むものもまた「空」なのだとすると、私たちは「空」を包み包まれている、という同時性の内、もしくは境に生を見出しているのではないかという気がしてくる。
ただそこにある。それだけで良いとされるのなら何と素晴らしいことか。
拡張的古典事実–
近年の創造的な新しい概念を創世記や神話、古事記などの古典に出自を求める動きが時々ある。つまり最近のこの考え方はすでにこれこれに載っていたよ、と拡大解釈することである。
上記の神話は往々にして抽象的な事象の連なりであり解釈の幅がある。それを利用して、さも近年の新しいイデオロギーがそれらの神話によって予測されていた、もしくは発端だと主張するのは閉鎖的な宗教擁護者がよく行う手法である。
こうやって後付けで物事を過剰に接続し神格化させることは真の創造的行為ではない。ましてや現実のテクノロジーの拡張性や生物学的進歩の倫理性について何も解決しないどころか問題をややこしくする。
現実主義者と合理性、及び理性で物事を思考しない人間との溝は、今後より一層深まっていくだろう。
生きる意味–
生きる意味はあるのかという議論をよく見る。
「種の保存のため」という人がいる。しかしそうであればもっと単純な細胞で良いはずである。「幸福になるため」という人がいる。しかしそうであれば苦しみや悲しみをもたらさない脳に直接作用する薬などを打てば良いはずである。
生きる意味は誰にも定められていない。だから自分で定めることができる。ハイデガーは「存在と時間」で本来的な生き方と非本来的な生き方を明らかにした。
私達は「意味を問うのではない、意味を問われているのだ」。この意識で生き方はより本来的な方向へ向かうだろう。
放つ–
近頃「中央を空白にしておく」ということを意識している。
例えば、
他人は分かり得ず、どのようにも転ぶものだとする、
そこには意味はなくただ事実がある、
作り得ないということから作り始める、
など。
人は力んだ状態より、常にニュートラルでいたほうが柔軟に対応できる。細部まで決め切らず、その状態を認めて放っておくことも大事だと思っている。