基準

世に価値の基準は無限にある。多くの価値の中の1つを唯一の価値だと信じてしまえば、それは劣等感に繋がる。

よって価値基準を増やすとともに、すべて等しくそれほど価値はないと考えることも時には重要だと思っている。

意識

意識とは何だろうか。

ある説では人の意識は3,000年前に発出したとされ、言語における比喩や書き文字がそれを可能にした。内的な思考言語で時間を空間化したことで、時間の向きが意識を生んだようだ。

それまではいわば自己意識がなく、右脳(神のお告げという幻聴)に従う「二分心」だったという(そしてこれは統合失調症の状態と近いらしい)。

我々は日々毎秒何百万ビットの無意識を生成し、それを元に何かしらの判断をするのだが、トール・ノーレットランダーシュやベンジャミン・リベットによると、これら膨大な情報が無意識の経験パターンで凝縮され、数十ビットの意識として処理される。

つまり私たちの言動は起こる0.5秒前にアルゴリズム的に決定されている。そしてそれを実行に移す寸前――0.1秒前に踏みとどまる自由しか与えられていない。

無意識の膨大な情報は捨て去られるにも関わらず、私たちは自分で何かを選んだと「思わされている」。

これが神経生理学上での事実だ。

一方、スピノザにおいては人間には自由意志はないと言う。全ての個物は神を原因としているからだそうだ。

意識は生まれた。しかし幻想だった。これが言語の弊害なのだろうか。
この「今」を「ある」としているのは何なのだろうか。

言語の限界を越えて

言葉は言葉でしか表されない。言葉は最小単位である。
言葉を集めた言語は誰のものでもない。誰のものでもあるが他者でしかない。
他者は永遠にわかり得ることはない。そして自分さえも他者にとっての他者である。

もし完全な「倫理」があるとすると、それは私の固執を超越したところをもって、あらゆる知識や経験に左右されない絶対的な位相としての「他者」を尊重することから始まる。

これは言葉を習得することと似ている。
圧倒的に異なるものは、まずは受け入れるしかないのだ。

word

言葉とは呪いのようなものだと思うときがある。

多くの感情をひとつの言葉で表現したとき、言葉で表されずこぼれ落ちる感情がある。つまりそこには必然的に嘘が生まれる。

言語化するということは言葉の持つ力を放つことであり、ときにはそれが自分に災いをもたらし、ときには神が宿ったりする。

言葉に真実はない。どんなに的確な言葉であっても、都合よく解釈されうる。

「そらみつ大和の国は 皇神のいつくしき国 言霊の幸はふ国」
山上憶良

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