過程と真理–
アラン・バディウは言う。
芸術における真理は、真理と厳密に共存在的であり、科学や愛、政治の真理へと還元不可能である、と。
芸術は真理を受け入れる能力がないとする教育主義的発想や、真理を受け入れキリスト教的な図式で無限なる力を受肉させるとするロマン主義、はたまた治癒的なカタルシスに限定することで真理と無縁にさせる古典主義のどれもが間違いであり、芸術が持つ効果こそが哲学的対象となる。そして作品群が真理の過程のまったく新たな現実存在を課す場合、それは「非美学」として哲学的に語られ得る。
真理は出来事――状況に対して過剰なもの、によって始められた芸術的「過程」であり、この過程を構成するのは様々な作品にほかならないのだ、という。
ここでの作品とはある真理の局所的審級、識別点となる。これはエルンスト・ゴンブリッジが、芸術とはその時代における行為の連続性であると見たことと重なる。またホワイトヘッド的に全ての事物が魅了し合いほのめかされていることによって立ち上がる関係性の生成プロセス=抱握が、何よりも先回りしていることから第一哲学的なものが美学とされることにも繋がる。
なので芸術家と名乗ろう者たちは、諸真理の探究結果としての作品が新たな存在の予期として機能することを期待しつつも、単一の真理的固有性を手放し、非美学的な思弁的プロセスと無限性へのコスモロジーとしての過程へと向かわなければいけない。
この双方向的な矛盾律の包まれが、苦悩/原初的な生の喜びという対峙と相似を成し、大河への流れ=プロセスへと私たちをいざなうのである。
知ることで–
私たちは、「誰かが考えていること」を知ることができて、そのことによって「私が考えていること」を知る。
by new relation–
表現と批評、またそれらの言説というのはダブルコンティンジェンシーな側面を見ることがある。相手とする対象の出方次第で、またその可能性を十分に含ませていることこそによって、意味を回収可能とする他者依存性を肯定する。
量子物理の世界にも不確定性原理というものがある。相手に今の気持ちを聞こうとすると、その行為によってその人の本当の気持ちが見えなくなる、みたいなことだ。
表現の意味が、解答のある問題に対応していないこととは別に、こういったコミュニケーションの相互関連の不明確さがまた表現の意味性を理解の奥底に追いやる。
私たちは触れられない空気と同居しながら、同時にその空気をも吸っている――そういったことをしている。無自覚的に。
知覚–
写真を知覚するとき、写真の対象の正面は、
その写真から想起されるものの反事実的な知覚を含むことを余儀なくされている。
写真が記録以上を望むとき、写真は無限の想起の連続からその正面性を無意味にし、情報のレトリックの海で、誰が最も混じり気のない原料をすくい上げられるかというゲームをしている。
人は写真に何か大きな期待をしすぎたのかもしれない、と思うことがある。