成就–
私たちは非連続の存在であり、理解できない運命の中で孤独に死んでいく個体であるが、しかし失われた連続性へのノスタルジーをもっているのだ。
ジョルジュ・バタイユ
事事無礙–
華厳思想を学んでいると、理事無礙――事事無礙における理や事の生成過程やその関係性とアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの活動的存在、活動的生起の生成と価値化を比較したくなる。
華厳においては絶対的無分節、つまり空である「理」がひとつのものとして自己分節的に現象し、我々が経験的世界と呼ぶような森羅万象の世界「事」が生起する。つまり「理」は「事」に侵入して「事」そのものとなり、「事」は「理」を体現し、結局「理」そのものをあらわしている。
そして事と事が相互に関係して一つに融け合い、一つの事のなかに他の無数の事がイメージとして映り込むのが事事無礙である。
ホワイトヘッドでは活動的存在は唯一無二でありそこに一切の価値があるとされ、各々が主体となった連関世界において非連続の連続というあり方で生成消滅している。そしてその活動的存在は瞬く間に他の対象となり過去化しながら延長連続体へと埋没する。
双方において多即一、一即多であり、ゼロは無限性の地平へと投企される。
これら時間的契機における刹那滅や存在解体と再生成において、「生きた現在」をどのように矛盾から開放するかということが個人的思考の主題になりつつある。しかしそういったことさえも、断片的に分解と生成を繰り返した後の空虚な実感としてしか連続しないのかもしれないと<いま・ここ>で考えている自分がいる…
抽象絵画と矛盾–
この今の時代に抽象絵画を描いているものを見るたびに思うものがある。
ロザリンド・クラウスがかつてアド・ラインハート等についての批評において、抽象が持つパラダイムの再帰性について書いていた。
抽象芸術の諸パラダイムに組み込まれた両義性―純粋な観念と完全な物質性という宙吊り―はその内的矛盾によって特徴付けられるという。
形態を再発明しようとする欲求に原動力を与えるのがその矛盾ならば、それが事実として反復であることを否定しようと油を注ぐのもその矛盾なのだと。
レヴィ=ストロースの指摘、神話それ自体は繰り返し舞い戻ってくるばかりの根深い文化的矛盾への反応だという言説を引き合いに、これらの回帰の形式/反復強迫が生み出すものは次のようなことだ。
1. 抽象のパラダイムが所与の芸術家の実践の中でシリーズ化の手段となる。つまり、わずかな差を生じつつ複製を延々と連鎖させ同一フォーマットを繰り返す。
2. その抽象が完全に単純な形態であるにもかかわらず内的矛盾の感覚を生み出すという事実を強調する。
オリジナリティという虚構の維持のための自己―欺瞞性がここにあり、観るものを把捉を絶えずかわすのだ。
ヘラクレイトスから–
「対峙するものが和合するものであり、もろもろの異なったものどもから最も美しい調和が生ずる」とヘラクレイトスが言うように、自然と人は相反するものとして和合を目指すがゆえにその過程が美しい調和として「人には」認識されうる。
人は人の相関の内/外を意識的に選択するが、それさえも人の思惟だということへ取り込まれるこの差異吸収のシステムを否定した際、まったくもって「それらしくない」文脈を、「それらしい」ものとして受け入れることへ人は到達できるのだろうか。